old_slavicのブログ

スラヴィスト見習いの日々?鬱と希死念慮とスラヴと

エイゴと和解せよ

先日、渋々ながら某氏宅で英語で書かれたスラヴ語に関する本を読んでいたのだが、やはり情報量(文献の量)として英語によるものの方が日本語のものより多いことを感じさせられた。

 

英語嫌いの自分からしたら比較的遺憾ではあるのだけれど、そうも言っていられないだろうことは明白だ。

 

弊学図書館にあったスラヴ語に関する書籍を紐解いてみても、面白い内容を扱っている書籍(論文)が多い気がする。

 

英語に関する勉強もしなければなぁという感じで、論文の講読的なことをして勉強することにしようかというつもり。専門書が読めるようになれば良いので、別に日常表現は求めていないのだし。英会話教室的なところに行くことはないだろうな。

いどーの動詞

以前の授業の発表で、OCSでидти,ORでходитиというふうに揺れがある箇所があるみたいな話をしたのだが、当時(今もそうだが)うつでまともな分析ができていなかった。

散歩(登校)ついでに思いついた与太話に近いが、アイデア的なものとして記しておこうと思う。

この定/不定の揺れが他の箇所でも規則的に現れるのかどうか、それからコンテクスト的にはどちらが正しいのか、ほかの移動動詞の振る舞いはどうか、現代南スラヴを俯瞰すると移動動詞の体系はどうなっているのか、他の写本はどうなのか、その写本の背景はどうだとされているのか、通時的に移動動詞の体系がどういうふうにいつごろ変化したとされているのか、などを調べるといくらか面白い事実が見えるのかもしれない

素人の思いつきなので、先行研究を漁れば分かりそうではあるが……

スラヴ

なんだかんだと言いながら、スラヴ学に対する憧憬の念は捨てることができず、色々と思うところもあるのだけど、その道を進みたいという気持ちはある。

しかし、かといって前向きに勉強できるかと言われると、そうではなく、結局どこかのところで思考が中断され、フェードアウトして戻ってこないのだ。

うつの症状なのか、自身の怠惰のなせる技か、最近は30分間集中できたら良い方で、どうにも効率や結果というものが出ない。

楽しいという気持ちもあるにはあるのだけど、なかなかその気持ちを思い出すのも難しい。

昔は、まず間違いなく楽しみながら勉強できていて、かなり長時間集中できていた記憶があるから、余計に辛く感じるのだろう。

やらなければならないとは思うが、義務として捉えているわけではないと思う。

しかし勉強することが難しいのだから、色んな意味で限界が近いだろう。

 

文献学的研究に対する思いも同様に捨てることができないでいるのだが、なかなか、勉強するにも、専門分野と定めるのも、難しいように思う。文献学にはとかく、(少なくとも私には)時間がかかるのだ!

もう生きていたくないという気持ちがいちばん強い。かといって相棒氏の手前、やはりそのままおいそれと自殺するわけにもいかないとは、思うのだが。

 

しかし、人生を辞めたい、この世の全てから解放されたい、今すぐ楽になりたいというような欲望が留まることはなく、色々な考えが頭をもたげていて、それがしんどいというのもまた確かなのだ。

 

結局、相対的に見て今までより休みが少なく、かつ日々消耗するばかりで色々なものが擦り切れてしまったように思う。

自分の広義の興味関心に合う授業が多いので、授業自体は楽しみなのだが、狭義の興味関心の授業はないし、かといって、自習しようとしても、あまりにも自由な時間がない。

それでは心が擦り切れるのも当然ではないだろうか?

おまけに、将来が約束されているわけでもなければ、むしろ不安定な道を歩もうとしていて、正規就職の望みも薄く、自分の能力もない。それをつけるための時間も捻出できず、あまつさえこの程度のことで病んでさえいる。そして、外の世界(他大学のほぼ同年代)の人々を知ってしまって、自らの無能さをまた自覚させられ、壁の高さを否が応にも実感させられる。つまり、自分の将来に希望など微塵も感じられないのだ。

それに、自分を取り巻く社会全体に対しても希望がないといって良い中でどう生きろというのだろうか。

秋学期授業の発表準備について

タイトル予定は「南スラヴ方言の諸問題」

パラレルテキストの作成が基本かなぁ……

一つ問題としては、テキストの題材を何にするかということと分析の余裕があるかということ

また、方言の範囲をどう設定して、何を扱って何を扱わないかという問題も……

 

場合によっては形態論(音韻論?)的な考察に留めるって言うことになるかもしれない。

 

こういうまともな?ものは初めてやるので、緊張しきりですね

 

少なくとも、現代南スラヴという点で共時的な視点は入れられるはず。

しかし、通時的な視点をどう絡めるか、という問題も……

 

通時と共時という2つの観点を峻別しつつ、かつどう取り入れるのかという問題、

そして社会言語学的な視座を入れること

 

どうも総花的な発表になってしまいそう。

具体的な"材料"(テキスト)を使って"調理"(分析?)できて、"レシピ"(先行研究)どおりになるかどうかを調べられるだけでも上出来だと思う。

少なくともそういうことにしたい。